は か り
2009年9月18日金曜日、シアトルのセーフコ・フィールドはヤンキース戦ということで超満員だった。実力に勝るヤンキースに2対1とリードされた9回裏、絶対的守護神がマウンドに立つ。勝利の方程式、高速カットボールを操るリベラは先頭のふたりを連続三振に退け、あっさりと2アウトを取った。ゲームセットは目前かと思われたが、マリナーズの代打が二塁打を打ち、イチローに打席が回る。打席に入る前にバットを膝において内股で屈伸する仕草はいつもと同じ。球場は静まり返る。点差からここは長打しかない。内角にきた初球にバットを合わせ、歓喜の右翼スタンドへ叩き込んだ。イチローは何事もなかったようにダイヤモンドを1周すると、ナインの輪に飛び込んだ。
彼にとっては初の逆転サヨナラホームランだが、こんな劇的シーンも、もはや過去の小さな“出来事”なのかもしれない。3月21日東京ドームのアスレチックス戦は、延長になって終了したのが12回。8回裏で交代を告げられ退いたが、試合が終わっても引退を知った多くの観客が帰ることなく待っていた。「もう一度姿をみたい」とイチローコールを繰り返す。それを“出来事”と表現し、「あんなことが起こるとは、想像してなかった」と語ったように、試合が終了してもなお、待ってくれていたのは想定外だった。
日米通算4257安打、プロ野球における通算安打世界記録保持者としてギネス世界記録に認定され、MLBオールスターゲームにも出場したほどの人物が、球を拾い集めながら若手のバッティングピッチャーを進んで務める姿に、イチローの本質をみることが出来る。この世界で成功するのは一握り。試合に出られず苦しみ、諦めてしまった多くの選手を、28年という野球人生の中で何度も見てきたから生じる自然の姿なのだろう。
他人と自分を比較すると、人はそこから生じる様々な現実、感情に苦しむ。「はかりは自分の中にある」と語るイチローは、他人と比較しないことで自分をコントロールしてきた。小学生の頃、毎日練習して近所の人から「プロ野球選手にでもなるのか」と笑われ、アメリカに行く時も「首位打者になってみたい」と言って笑われたが、決して諦めなかった。地元の愛知県豊山町で行われた学童軟式野球大会の閉会式で小学生達を前にこう語った――――「出来ると思ったことが必ず出来るとは限らない。だけど、自分が出来ないと思ったら絶対に出来ない。可能性を決めないで欲しい。」そう、はかりは自分の中にある。